我らがタイガースは全日程を終了してしまったので試合がないのです。仕事を終えていそいそとうちに帰ったところでする事もなくなってしまいました。DAZNも解約しました。
何をするでもなくぼーっとして気づけば手近にあった紙を正方形に整え鶴を折ってしまっていました…
ところで皆様、鶴は折れますか?
何を隠そう僕は小学生の時、授業中退屈になるとノートや教科書の端っこを小さく正方形にちぎりこっそりと鶴を折っていました。
あ、長いですよ、今日。
で、つづきです、
折っていたと簡単に言ってますが半端なく折っていたのです。折って折って折りまくっていたのです。
さすがにそれだけ折るとノートの消費は半端なかったのでついに折り紙を買い込み机の中に忍ばせていました。しかし、さすがにそんなに折り続けていると飽きてきます。
どれだけ小さい鶴を折れるかと燃えた事もありました。あまりに小さいと指では不可能、家庭科で使うまち針の先で細かい「開き」をこなすのです。
またある時はクチバシで繋がる二連の鶴、またある時は羽で繋がる鶴。だんだん調子が出てきたので六連の鶴を作っていた時はさすがに先生に見つかり叩かれました。
もはや鶴なら自由自在。目をつぶって折ったり後ろ手で折ったり、とだんだんアクロバティックになってきたのです。もはや足でも折れます。いまや小さな正方形の紙を口に入れれば舌で鶴が折れるんです!
それは無理。
さすがに舌では折れません。さくらんぼ結びかっ。そんな事できてたら今頃ユーチューバーになってにこやかにチャンネル登録してねーって笑っとるわ。
そんなあらゆる鶴を体得した時、ふと完璧な折り鶴を折ってみようと思ったのです。
誤差のない完全な正方形の紙を用意しました。精神統一し集中する事が必要だ、とそれまでのように授業中ではなく、なんと放課後みんなが帰るのを待ち誰もいない教室で西日に焼かれながら折ってみたのです。
角と角は正確に合わせ、折り目もぶれなく完璧に折上がったと思われたその鶴は、両の羽こそ見事に尖ってはいたものの、そのクチバシと尾の先は無様にずれていたのです。
渾身の僕の「折り」の技術を惜しみなく注ぎ込んで折り上げたはずのその鶴は差し込む西日に無様な姿を晒していたのです。何故だ。ミスはなかったはず、と半ば放心したように目の前の鶴を見つめました…
そして気付いたのです。
工程工程で、どんなに正確に折り合わせても、折り返した時に紙の厚さにより生じるズレを計算していなかったのです。
すなわち、羽などは折りの工程は少ないためなるほど見事に仕上がった、けれど折を重ねる尾、さらに折るクチバシ、そこはズレが集積されてしまうのです。
ならばどうする。
幼い僕は考えました。逆算するのです。理想の完成形からズレを逆算し最初からずらせて折らねば究極の折り鶴など折上げる事など不可能!
しかしそのズレを読みきる事は至難の業。日々鶴を折りまくり試行錯誤の毎日。できたと思っても今度は羽にその誤差が影響してズレる。
クチバシ、尾、羽、と全てがトッキントッキンにとんがった鶴などもはや不可能と思われたのでした。
しかしある日、それまでの失敗により蓄積されたデータ群に僕の閃きがプラスされついに、ついに花開くその瞬間が訪れたのです。
完成したその鶴は、一言で表すならば「見事」。のびやかで天を衝くその尾、限りなく研ぎ澄まされ何者も寄せ付けぬクチバシ、優雅でありながら美しい見事な羽。
こんな折り鶴が生み出される事があったのか、と僕は自らの仕事に何故か恐怖してしまったほどです。
美しい…
この美しさを超えるような折り鶴は二度と折り出される事などあるまい。僕は八百万の神々に感謝しました。
しかし、あまりに神に近づきすぎたその折り技、さすがにこれは人間の領域を超えたもの。恐れ多い業なのです。もちろん僕は自らその業を封印しました。もう二度と、二度と鶴は折らない。もう鶴なんて折らないなんて言わないよ絶対。って、折るんかーい。
ああ、早く来年にならんかなぁ